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2020-01-21

私の半生を振り返る : フランス語との出会い、そして得たもの

こんにちは。
メゾンフェナジェの原田かおりです。
 
ずっと以前からプロフィールを書き換えたいなと思っていたのですが、
なかなか取り掛かるきっかけがなく、時間だけが過ぎていました。

 

今日の午前中は夫が外出して家におらず、
集中して書けそうな気がしたので書き始めてみたところ、
書きたいことがあまりにも多すぎて(笑)
高校生の頃から就職までしか書けませんでした。
 
こうして部分的にではありますが、いざ書き出してみると、
なかなかいい人生を送っているなあと^^
 
自分で自分を褒めるのも大事ですしね。
 
今後も、こんな風に、いい人生だった!と思えるような生活、
体験&経験を積み重ねていきたいと思いました。

 

7,000文字以上あるので、興味のあるところだけでも
ぜひお読みいただけたらと!

 
 

人生の目的がなかった私に突然おとずれた読解不可能な愛らしい文字たち

私は高校1年生の頃まで特に将来の夢もなく、
人生の意味がいったい何なのか分からずに、
ただただ退屈なルーティンをこなすがごとく
淡々と生きていました。

 

商業高校へ進んだのも、普通科(進学校)であれば
落ちる可能性があるけれども、商業科であれば
ほぼ落ちることはないだろうと先生に言われたから。
ただそれだけの理由で受験をしたのでした。

 

そんな私に突然、転機が訪れました。
高校2年生になったばかりの春頃のことです。
書店でたまたま目に入ったフランス語のテキストに
載っていたアルファベットたち。

 

「ん? ”a” の上に何か点がついているぞ
à é è ç ù û ë œ …
うわー、何だこれ?見たことのない文字がいっぱい!
何て発音するんだろう?」

 

もともと、メディアから受け取るフランスのイメージ、
エッフェル塔や凱旋門などの美しい建物、
そして、オシャレな人々に憧れを抱いていた私は、
一気にフランス語へ興味を持ち始めました。

 

フランス語にアンテナが立つと、
ファッション雑誌を見ていてもフランスのブランドに
目がいくようになりました。

 

モノトーンのファッションが流行していた頃、
「agnès b.」の人気は凄まじいものでした。
デザイナーの名前「agnès b./アニエス ベー」がまず読めない。
Tシャツやバッグ、香水に書いてある文字も、意味が分からないため、
より一層オシャレに思えました。

 

読解不可能な愛らしい文字たちを読めるようになりたい。
話せるようになりたい。

 

やっと自分自身で何かを勉強したいという思いが
内側から湧き出てきました。
私はとても嬉しくて、一人で興奮していました。

 

家庭訪問で担任の先生に
「フランス語を勉強したいと思っている」
と恐る恐る伝えると、先生は
「素晴らしい! 語学は楽しいぞ。ぜひ勉強してみてください」
と仰ってくださいました。

 

先生の専門は地理でしたが、通勤時間に英語を勉強されていて
語学を勉強する楽しさをご存知の方だったのです。

 

「今すぐに勉強を始めるのは難しいから、
書店に行って、フランス語で書かれた本を一冊買ってきて
机に置いておくところから始めてみてください」
とアドバイスをいただきました。

 

担任の先生に応援され始めた私は、
もうフランス語のことしか頭にありませんでした。

 

果たして、商業高校からフランス語を学べる大学に行けるのだろうか?
進路科に行って、大学や短大のパンフレットを読みに行く日々が始まりました。

 

商業系の大学であれば、頑張り次第でどんな大学にでも行けるけれど、
文系の、ましてやフランス語となると、畑違いのために、
まったく情報がありませんでした。

 

しかし、英語が得意な人は英文科に進んでいるケースもあります。
外国語学科のある短大のパンフレットを見ているときに、
ついに見つけました!

 

\\長崎外国語短期大学 フランス語フランス文学科//

 

同じ九州内にフランス語を勉強できる短大がある!
しかも一クラス30名ほどの少人数制。
日本人の教授が二人、フランス人講師が二人。
留学制度も大学への編入学制度も整っている。
私、絶対ここに行く!」

 
 

情熱の源泉が見つかると日常の景色までも変わる

その日から私の見ている風景はガラリと変わりました。
高校生活も通学路も何も変わっていないのに、
私自身の頭の中に情熱の源泉が湧き出したことで、
人生そのものが変わり始めたのでした。

 

おそらく、多くの人にとっては、このような転機が
もっと早くに訪れるのではないかと思います。
私には人生のエンジンがかかるのが遅かったのかもしれません。
しかし、遅かったからこそ、今でもそのエンジンは
かかり続けたままなのかもしれません。
私は今でも学ぶことが大好きですし、
常に何かを勉強していないと気持ちが悪いほどなのです。

 

短大に合格できるように、その日から本気で勉強を始めました。
商業科に進んだにもかかわらず簿記が大嫌いだった私。
でも、推薦をもらうためには嫌いな科目も頑張らなくてはなりません。
そして、なんといっても入試の英語も。

 

目的があり、やる気のスイッチが入ると、人は強くなります。
がむしゃらに頑張ることができます。
誰かに言われたわけでもなく、自分で決めたからこそ
自分に言い訳はしたくありません。
ひたすら進んでいくことの楽しさを体中で感じていました。

 

また、当時は禁止されていたアルバイトも同時にしていました。
目的はもちろん「フランス」に行って勉強をしたいから。
留学費用を自分で貯めてみたいと思ったのです。

 

レジのバーコード読み取りがまだない頃、
放課後にスーパーでひたすらレジを打ち続けていました。

 

アルバイトをしているから、学業がおろそかになるとは思いたくなかったので、
もちろん勉強も必死にしていました。
とにもかくにも私の頭の中は「フランス」でいっぱいの日々を送っていました。

 

学業とアルバイトに熱中した高校時代に得たもの、
それは、
・フランス語学科のある長崎外国語短期大学に合格
・全商簿記1級、日商簿記2級に合格
・商業科を一位の成績で卒業
・アルバイトでフランスへの短期留学費用を貯蓄

 

という高校入学前には思ってもいない結果でした。
おそらく私の変化にいちばん驚いていたのは私の両親でしょう。
そして、私のやりたいことをいちばんに応援してくれていたのも両親でした。
反対せずに応援してくれたことを今でも感謝しています。

 
 

努力の報酬は”国際交流奨学生”

憧れの短期大学に通い始めた私は、すぐにフランス語の難しさにぶち当たりました。
発音が難しすぎて、教科書にカタカナでフリガナをふることもできません。
読めないし、真似をして話すこともできない。
難しすぎる!

 

しかし、クラスメイトの中には高校時代から
フランス語を勉強している人がいました。
みんなでその人の周りに集まり、発音を教えてもらったりしていました。

 

その難解さが私の情熱の炎にさらに火をつけました。
絶対に話せるようになってやる。
高校生の時以上に努力をしました。

 

その結果、各学科から一人ずつ選ばれる国際交流奨学生に任命され、
短大の姉妹校であるアンジェカトリック大学への夏季留学(1ヶ月間)の学費
及びパリ旅行(1週間)の滞在費がすべて免除となりました。
一ヶ月間の短期留学費用以上の大きな名誉ある報酬をいただくことができました。

 

初めての海外、初めてのフランス

私にとっての初めての海外はフランスです。
19年間、日本から出たことのなかった私には
フランス生活は衝撃的なことばかりでした。

 

景色は美しいし、食事も美味しい。
でも量がとても多く、胃がもたれる・・・。
デザートはどれも大きくて、甘いものが大好きな私には嬉しいかぎり。
(現在は甘いものが苦手です・・・。年をとったせいでしょうか。)
どこからか漂ってくる洗剤の匂いも、今まで嗅いだことのない良い香り。

 

着いてすぐにホームシックになるクラスメイトもいましたが、
私は初日からフランス生活に馴染むことができました。

 

しかし、1年ほど短大でフランス語を学んでいたにもかかわらず、
私のフランス語は現地のフランス人には通用しませんでした。
「コップ (verre) はどこにありますか?」と寮の食堂で尋ねると、
「ああ、バター (beurre) はテーブルの上に置いてありますよ」

 

私はコップを探していたのですが、コップの発音がバターに聞こえたようです。
初日から私のフランス語が通じないことにショックを受けました。

 

おそらく、日本でフランス語を教えているフランス人教師は
日本人が辿々しく発音するフランス語に耳が慣れているのだと思います。
しかし、下手な外国人が話すフランス語に慣れていない現地の方々には
同じように話しても通用しないのです。

 

私は自分のフランス語が通じないことを知るためにフランスへ来たのか。。。
かなり落ち込みましたが、すぐに気持ちを切り替え、
1ヶ月間で上手に話せるようになるぞ!と自分自身に誓いました。

 

話せるようになるためには、フランス語のシャワーを浴び、
人と話すのがいちばんです。
インプット&アウトプットの繰り返しで語学も上達していきます。
少しでも言いたいことが伝わると、
もっと伝えたいという気持ちになりますものね。

 

毎日の授業、そして食事、週末の遠足にパリ滞在。
たったの5週間でしたが、もしかしたら今まででいちばん
密度の濃い時間だったのではないかと今でも思っています。

 

夏季留学の成果がわかったのは日本に戻ってきて、
いつもの短大での授業が始まってからです。
先生の質問に反射的に何かを答えることができるようになっていました。

 

つまり、「えっと・・・」と日本語でワンクッションを置かずに
すぐにフランス語で何かを話し始めることができるようになっていたのです。
フランス人の先生方と気軽に会話ができるようになったのもこの頃からです。
そして、この頃から大学へ編入をしたいなあと考えるようになりました。

 
 

次なる目標、それは大学3年次への編入学

短大から大学へ編入した先輩方は結構いらっしゃいました。
ただ、大学側から短大へ募集がきた大学のみ受験をすることができます。
どこにでも行けるチャンスがあるわけではありません。

 

当時、私が希望していた神戸の大学は、その年に限って募集がありませんでした。
まったく興味もない土地の国立大学に行くか、それとも東京の私立大学か・・・
パンフレットを読んだり、実際に編入学されている先輩方の話しを聞いたりして、
東京の大学を受験することにしました。

 

試験内容はフランス語と面接のみでした。
調布市の閑静な住宅街の中にある女子大学。
校門からチャペルを通って教室にたどり着くまでの
たくさんの木々に囲まれた美しい小道を歩くのがとても心地よく、
この大学に絶対に通いたいと思いました。
その思いが試験にも面接にも表れていたと思います。

 

短大を卒業後、私は白百合女子大学の3年次へと編入をしました。

 

東京での生活 :  私は日本語が上手に話せない?

短大でも忙しい日々を送っていましたが、
編入してもさらに忙しい日々は続きました。
短大で取得した単位が、大学ですべて認められるわけではないようで、
卒業までの必須単位がとても多く、結構苦労しました。

 

先生方はテレビ(ラジオ)に出て活躍していらっしゃったり、
帰国子女でフランス語を母語のように操られる方が多かったです。

 

生徒もオシャレでキラキラしていて、
ブランドバッグが似合うスタイルの良い人たちばかり。

 

九州の田舎からひょっこり出てきた私は、
自分の外見のダサさに嫌でも気づかされることになります。
それと同時に、自分が訛っていることに初めて気が付きました。
自分でも他の人と違う日本語を話していることがわかるのです。

 

フランス語も勉強しないといけないのに、
イントネーションも変えなきゃいけない!
今となっては、どのように”標準語”をマスター(?)したのかは覚えていません。
先生やクラスメイトと話すことで自然に身についたのでしょうか・・・。
言葉をはじめ、東京での生活に馴染むのに時間がかかったことは言うまでもありません。

 

夏休みを利用してリヨンへ夏季留学

大学に編入してすぐの夏休みは、リヨンカトリック大学へ夏季留学をしました。
高校生の時にアルバイトで貯めたお金があったので、それを資金に。
前年と同じ期間(一ヶ月間)、同じ夏季講座ということで、新鮮さに欠けてしまい、
はじめての留学のような大きな成果は得ることができませんでした。

 

でも、前回はできなかった単独行動はできるようになっていました。
例えば一人で地下鉄や電車に乗って遠出をしたり、ご飯を食べに行ったり。
勉強の面ではあまり収穫がありませんでしたが、
精神面ではやはり成長できたのではないかと思います。

 

朝日新聞社主催のフランス語コンクールへ強制出場

夏休み明けに、帰国子女の先生が受け持つクラスで、
朝日新聞社主催のフランス語コンクールへの応募が必須という授業があり、
私はその主題として、リヨン留学中に起こった不思議な体験について書きました。

 

ブルターニュ地方のサン・マロに行く途中の出来事です。
電車はガラガラで、私は一人で窓際の席に座り、
発車するのを待っていました。
そこに老夫婦が乗り込んできました。
車内はガラガラなのに、私の向かい側に「Bonjour!」と
会釈をしながら座ってきたのです。

 

向かい合う4人席は、この老夫婦の体が大きいこともあり、
とっても窮屈になりました。

 

電車が発車すると、それまで日陰だった私の座席に
日光が当たるようになり、
私はなんだか急に居心地が悪くなってきました。

 

しかし、その老夫婦はおだやかに会話を続け、
電車での旅を楽しんでいらっしゃいました。

 

私の空間にお二人が入ってきて、私の存在を認めつつも、
お二人での空間を楽しんでいらっしゃる。
これが日本だったら?
おそらく、ガラガラの車内であれば、
誰かがすでに座っている席の前にあえて座ることはなく、
誰もいない席に座るのではないだろうか?

 

サン・マロまでの車内では、お互いの存在を認めつつ、
それぞれの空間を共有しながらも、
心地の良いそれぞれの時間をつくることができていた。

 

というような趣旨の内容を書いて応募したところ、
書類選考に通ってしまい、強制的にフランス語コンクールに出場することになりました。

 

それからというもの、書類選考に通った私と先輩は
先生方からフランス語の特訓を受けることになりました。

 

発音やイントネーションの矯正、
3分を超えないように話すスピードの調整、
質疑応答の練習などを主に学びました。

 

今でも強烈に覚えているのは、
帰国子女の先生が私たちを渋谷のスポーツジムに
連れて行ってくださったことです。
筋力トレーニングをしながら、暗記した文章を言いあったり、
質疑応答のシミュレーションをしたり。
全身が映る鏡の前での練習も新鮮でした。

 

さて、完璧に文章を暗記して迎えた本番当日。
在日フランス大使や有名大学の名誉教授を前に、
ミスをすることなく、無事に発表を終えることができましたが、
私は入賞することはできませんでした。
一緒に頑張ってきた先輩は2位に輝き、
フランスへの往復航空券などの賞品を獲得しました。

 

今でこそ、結果重視ではなく、
そのプロセスが大切だということがわかっていますが、
当時は結果がすべてだと思っていた私。
時間が経つにつれて、入賞できなかった悔しさが溢れてきました。

 

発表が終わったあと、スポーツジムに連れて行ってくださった先生が
今度は銀座のバーに連れて行ってくださいました。
そこで、私は生まれて初めて「シャンパン」を飲んだのです。
この世にこんなに美味しい飲み物があるのか!
それまで落ち込んでいた私を、シュワシュワの繊細な泡たちは
その美しい味と香りとともに一気に笑顔にしてくれました。

 

それ以来、シャンパンを飲むと、あの銀座のバーでの出来事を思い出します。

 

入賞はできなかったけれど、先生方とも先輩とも仲良くなることができ、
このコンクールへの出場は私の人生において
とてもいい刺激、経験になったことは言うまでもありません。

 

リヨンに留学したからこそ、新たな気づきが得られ、
それを文章にしたことで、コンクールに出場することができたのです。
そして、先生方や先輩と共に、同じ目標に向かって頑張り、
今までに緊張したことのない大きな発表の場で自分なりに表現をすることができた。
何事も新しいこと、不安なことに挑戦しないかぎり、
成長はできないのだと気付いた大学3年生の出来事でした。

 

就職氷河期世代  :  実家遠方、コネなしは履歴書さえ送れない

1976年生まれの私は就職氷河期世代です。
商業高校を卒業する頃は、高校にたくさんの求人がきており、
就職難とは無縁だったことを覚えています。

 

しかし、私が大学を卒業する頃は氷河期に突入しており、
大学にくる求人数も激減。
親元に住んでいない人は応募すらできない企業もたくさんありました。

 

大学4年生のほぼ一年間を就職活動に費やし、履歴書を書いても
私を必要としてくれる会社は一社もありませんでした。

 

面接で、
「簿記1級持ってるんだね。でも、うちでは3級を持っていれば大丈夫。
1級はいらないんだよね」
なんて、意地悪なことを言われたこともあります。

 

また、英語の文章を渡されて、読んでみてと言われ、
フランス語ばかり勉強してきた私は、満足に英文も読めず
笑われたこともあります。

 

時代がよければ、どこかしらに就職ができて、企業内で様々な研修を受け、
どんどんスキルを磨くことができたのでは。と想像します。

 

現在、日本政府は「就職氷河期世代支援プログラム」として、
1344億円の予算を投じるそうですが、あまり朗報とはいえない内容のようです。

 

生まれた時代によって、その後の人生に大きな差を生んでしまう。
仕方のないことではありますが、
頑張って大学生活を送っても、最後の最後で、
大学4年生という時間を「就職」ということのためだけに費やしてしまったこと。
そして、社会に出る前に組織に所属することに対するモチベーションを奪われたこと、
また、人格を否定され続けたことは否めません。

もし当時、起業などに対する就職以外の考え方を示唆してくれる人との
出会いなどがあればよかったのになあとも思ってしまいます。

20年以上も前のことですので、タラレバを言っても仕方がないのですが。

 

大学を卒業後に就職先が決まる

大学を卒業後して約一ヶ月後、新聞の折り込みに入っていた求人に応募し、
契約社員に採用という形で私の就職活動は終了しました。

 

ちょうどアウトソーシング事業が始まった頃で、
リクルートの子会社の契約社員でありながら、
職場はエプソンの受注課という面白い形態でした。
週休二日制で残業もまったくなく、仕事も簡単。
それでいて、きちんと良いお給料を貰えていたのですから、
1年間の就職活動は報われたといってもいいかもしれません。

 

週末が暇だったので、エキストラのバイトもしていました。
いろんなドラマや映画の撮影に通行人やお店のお客さん役として携わり、
都内のいろんな場所に出かけて、東京生活を満喫していました。

 

でも、本業の方は、ルーチンワークでスキルを磨くこととは縁遠く、
契約満了の3年で延長申請をすることなく退社を決意しました。

 

退社後も東京に残ることにした私。
また、フランスへの思いがふつふつと湧き上がってきました。

 

続く。

 
 

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